2014年12月11日木曜日

ソーシャルアクションの方法  なぜデモが影響力を持てないのか(2)  デモの形態

前回に引き続き、なぜデモが影響力を持てないのかについて書かせていただきます。

私が参加したデモの実施方法について、僭越ながら参加者としての批評を書いてみたいと思います。

まず、デモが行われた日時についてですが、実施される曜日は、金曜日であることが多く、時間は夕方17:00くらいから始まり、21:00くらいに終了していました。平日に仕事を持っている人が仕事を終えて参加するためにも、この日時の選択は有効であると思います。参加者をできる限り多く集めないといけないデモで、この日時の選択を間違えることは致命的です。

場所については、私が参加した原発再稼働反対デモ、特定秘密保護法反対デモ、集団的自衛権行使の閣議決定反対デモの3つは、国会議事堂前や首相官邸前で行われていました。私は、この場所の選択が果たして妥当なのかということをいつも感じました。


国会議事堂前や首相官邸前の周囲は大通りが多く、いつ行っても、デモ参加者が大通り沿いの狭い歩道に沿って4列くらいの縦列に並ばされ、場合によっては2キロメートル以上の長い列になっていました。多くの警察官がデモの長い列を監視し、誘導していて、歩道の脇には大型の護送車が何台も駐車されていました。この護送車は、デモ参加者への威嚇の意味合いがあるように見えました。

デモが行われた場所は公道であり、警察が車や歩行者を通らせるためにそのようにしているということはよくわかります。ただ、それはあくまで建前であり、デモ参加者を細く長い縦列に並ばせる本当の目的は、参加者を物理的になるべく分散して配置し、参加者が集団としての一体感を感じられないようにするためなのではないかと感じました。警察は巧妙にデモをコントロールしているのだと思います。そして主催者と参加者は、その巧妙さにうまく乗せられてしまっていると思いました。


この縦列形態に並ぶということは、デモ参加者の心理に大きな影響を与えているように思います。縦列に並んでいるため、デモに参加した人同士が顔を合わせられず、自然発生的なコミュニケーションがなかなか生まれないのです。


これがもし、広場のような場所に大勢の人が集まったのであれば、デモ参加者同士が顔を合わせることができ、自然に相互のコミュニケーションが生まれます。コミュニケーションがカタルシスを生じさせ、参加者同士が「自分は1人ではない」という一体感を感じるのです。この一体感を感じることができると、多くの人は、デモに参加してよかったと思えるのではないかと思います。そして、その一体感が次のデモにも参加しようという気持ちを起こさせるのです。私の場合、年越し派遣村では、参加者が一緒に炊き出しや物資運搬を手伝うことで一体感を感じることができました。


一方で、この一体感が過度に高揚した時、暴動のような状態に発展する可能性もあります。警察は交通整理と同時に、デモのエネルギーを削ぐために大量に動員され、デモ参加者を巧みに分断しているわけです。私は、一連のデモに参加するたびに、「分断して統治せよ。」というどこかで聞いた言葉を思い出してしまうようになり、このデモのやり方にどこか限界を感じるようになっていきました。

もちろん、これらのデモは、数千人規模の人が集まったことにより、一定の政治的影響力を行使できたことは間違いありません。ただ、デモを実施する場所という視点で考える時、私が参加した3つのデモは、警察が用意した縦列形態のデモという形式の中にお行儀よく納まってしまっていたという印象が拭えませんでした。この形式によって、デモ参加者の中に、デモという方法の限界とその後の発展性のなさを感じてしまった人が結構いたのではないかとも思いました。  

0 件のコメント:

コメントを投稿